old-guy-tweetsのブログ

日々の出来事日記でボケ防止!

父母を偲ぶ Part Ⅲ

続きです。

 

抗がん剤治療の期間は終わったのですが、残念ながら、思っていた程の効果を得ることはできませんでした。

これ以上、この抗がん剤治療を続けても効果が薄いとの判断で、次の外科手術へと進みます。

手術当日は、弟と私が立ち合いました。
手術は10時頃から始まり、最初の心配事は、数時間で先生が出てくる事です。

お腹を開いて完全摘出が無理と判断した場合は、それ以上の処置はせず、お腹を閉じると言われていたので、数時間で先生が出てきた場合は、お腹を閉じて、これ以上処置無しとなってしまうからです。

15時頃になっても先生からの話が無いので、摘出手術へと進むことができたんだと、少し安心しました。

そのまま控室で、弟と2人で待つばかり。

ようやく先生が出てこられたのが、夜中の2時ぐらいだっと記憶しているのですが、処置の内容を簡単に説明してくださり、もう少しで手術が終わるとの事。
術後はそのまま集中治療室へ運ばれるので、今日は母に会えないとの事だったので、タクシーで一旦実家へ戻り、仮眠をとった後、また電車に乗って母のいる病院へ。

集中治療室に通していただき、母と面会。
母の身体からは、何本もの管が通されていて、すごい状態でした。
母は既に意識が有り、「手術の結果は?」と聞いてきたので、「難しい手術だったそうやけど、問題のがん細胞は摘出できたらしいよ。良かったね。」っと伝えると、「本当の事言いや。」と少々お冠の様子。
私たちが気休めのために、嘘をついていると思ったようです。

「お母ちゃん、覚えてるか?、お母ちゃんが手術室に入ったのが、だいたい10時頃やろ。
お腹を開いて完全に摘出がでけへんと判断したら、そのままお腹を閉じるって言うてたやろ。
もしそうやったら、数時間で終わってしまうから、昨日のうちに僕らもお母ちゃんと面会できてたやろ。
あとその管を見てみ、もし何もせんと閉じてたら、そんな管もいらんやろ。」

そう言うと、母も理解できたようで、数分間、目を見開いた状態で、天井をじーっと見て、暫くして目を閉じて、痛みに耐えているようでした。

私たちも集中治療室に長居はできませんので、その日はそのまま家に帰って、少し身体を休めました。

翌日も病院へ行き、集中治療室で短めの面会をし、弟も私も一旦福岡と神奈川へ戻ることに。

その間に、もし何かあった場合は、団地で長いお付き合いをしていただいている方がいるので、その方に甘えさせていただく事になっています。

その方曰く、以前、私の父に、ある事で助けていただいたと言う事で、「あの時、あんたのお父ちゃんが助けてくれへんかったら、大変なことになってたんやから、こんなのはお安い御用や。
こんな事で、私らが受けた御恩は返されへんねん。」

何が有ったのか詳しくは知りませんが、父の人徳でもあり、私たちも本当に助かります。

次の週末も、病院へ行き母と面会。
もう管は外されていて、少しでも良いので、廊下で歩くようにと言われていたそうで、「まだ痛いわ」と言いつつも、頑張って歩く練習をしていました。
顔色も良かったので、順調に治癒することを祈るばかりです。

何する事も無いのですが、母も私も傍にいてるだけで、何となく安心でき、まったりとした時間を過ごすことができました。

幸運にも母のベッドは窓際で、窓からは大阪城がばっちり見えるロケーションで、大阪城の周りの桜が満開で、すごく綺麗かったことを覚えています。

このところの週末は、毎週大阪に来ており、できるだけ交通費を抑えたいので、金曜日の夜に夜行バスで移動し、日曜日は、新幹線で神奈川へ帰るのがルーティーンになっていました。

土曜日の夜は時間があるので、小学校から高校まで同じだった友達と久しぶりに会ってからは、大阪へ帰る度に会うようになり、幸運にも、その友達の奥さんはケアーマネージャーだったので、今後の母の事について、相談に乗ってもらえたのも、本当に助かりました。

来週の土曜日、先生から話があるとの事なので、また大阪へ行くことになります。


(つづく)